すっかり夏っぽくなってきたような。梅雨入り前のせいか、蒸し暑いですね。毎日


私の田舎は今頃梅雨まっさかりといったところでしょうか。夏が来るたびに田舎の景色を

思い出しては、せつなくなるシャオですこんばんは。




さて、さてさて。何から書いたものか。



実はかなり迷っていたのですがね。もうこのブログそのものをすっぱりやめてしまおうかなんて。



それでも、今の私にとっては、自分が今ここで生きているぞ。っていう主張の場は

寂しいことにここにしかないわけで。



不特定多数の人、や、リアルでの私をよく知る人たち。


ここを訪れてくれる人が果たしてどれだけいるのかはわからないですが、私はここで

自分の考えや、自分の歩みなどをつらつらと書き綴っていこうかななんて。




さて、最近の身の回りの出来事。などを書くのがまあ、ブログのネタとしては一般的?なのかな。



今まで、いろんなことを書き続けてきたんですがね。


今回は、自分の中でも相当どうしようか悩んだのですが、まあありのままに書いてみるのも

いいかな、なんて思うわけです。




さて、この前の更新で私は結婚宣言をしたのですが。


無しになったことをご報告しなきゃいけないだろうなあ。



なぜ?って一部の人にはきかれるかもしれないけれど。



まだ、私自身も自分の中で消化しきれてないモノが多いので文章は雑になっちゃいそうだけれども。

書き綴ってみようかなと。笑い話にもならない幻想と現実の違いってやつかな。




今から数年前に、私はとても大きな間違いを犯したことがあります。



それは、いろいろな事情は当時あったのだけれど、やっぱりどんな理由をつけても

許されないこと。


生まれ出でようとする命を私は拒否したことがあったんです。



そのときは、仕方のないこと、それ以外に選択肢はない。当然そう思い込んでいたし

思わなければ、その決断は出せなかった。



どれだけ悔やんでも、何ももどらない。仕方のないことだと何度自分に言い聞かせてみても

やっぱり、どれだけ時間がたっても、忘れることは出来ない、私にとっての十字架

そして、私だけじゃなく、相手にも自分の都合で消えない傷を残してしまったこと。




一人で生きる。ということを考える前提ってのは、自分が幸せになることを否定すること。

同じことを繰り返すのも、傷つくのもつけられるのもいやだった。




じゃあ、なぜ私が結婚しまーす。なんていえたか。



まあ、あれを書いてる時には隣にその結婚したいなと思う相手がいたので、

若干自分の表現とは違う形になってしまってはいますが。



子供がほしい。


その人は私にそういってくれた。



恋人を、家族を、親友を。

そして、自分の血を分けた命をも守れなかった私に、そんな言葉をかけてくれた。


幸せになりたい。

その人は、いくつかのつらい出来事を乗り越えて、裏切られて、

それでも、いつかを夢見ているように見えた。私は、そう思った。




ああ、自分のこと、この人ならわかってくれるかもしれない。痛みを分かち合えるかもしれない。

そう思いましたね。



子供がほしいっていう言葉だけでも、私の背負った罪に対して、免罪符が下されたような

ああ、俺、幸せを目指してもいいのだろうか?って。思えた。


誰かに必要とされること、それが生きる証、それだけで私は生きる理由を見つけられた

そんな気がしたなあ。




でも、それでも。今隣にもうその人はいません。



少しだけ、夢を見た。というにはあまりにも、いまだ鮮明にその記憶は残りますが。




人を思えばあだとなり、信じれば裏切られる。



前にも書いたことがありますが、おそらく私は前世でとんでもない悪人だったのでしょうかね。




生きる意味を見出せず、終わりを選ぶこともできず

生きようと思えば、そのかすかな希望は踏みにじられる。



せめて、この体が自分の意思でコントロールできたなら、現実もかわるだろうか?

なんて。それがまさに現実逃避なのかな。



楽しかった日々、時間。そのすべてが作られたものだと思い知らされる瞬間。



そして、自らの存在そのものを否定されるような言動。




生きることがとてもつらくて。

このまま楽になりたいなあ。って本気で思いましたね。



まあ、心が弱い。まさにそのとおりなのかもしれない。



でもね、ふと思ったんですよ。



それは、人によってはゆがんだ考えだよそれは、なんていうかもしれないけどね。




どれだけ、絶望の中にいたとしても、

生きることの意味、喜び、それを見出せずにいたとしても。



些細なことでも、思い描けることそのものが幸せなのかな。なんてね。



何も考えたくなくても、目を閉じていれば浮かんでくるのは、いつか、いつか。


そう、思い描く自分なりの理想の形。



それは、自分だけのもの。



そして、たとえどれだけ裏切られても、わたしは未だ、心のそこから人を嫌いになれない。



無関心になろう、かかわらないでおこう。自分のことだけ考えていこう。

結局みんなそうじゃないか。


いくらそういう風に考えようとしても、そんなにあっさりすべてが変わるわけでもなく。


知らず知らず、笑顔で誰かと話している自分がいる。

作る努力をすることもなく、自然に。



それでも、いつか。


そのいつかは、目指す理想の形を実現しているのか、はたまた

すべての苦悩から開放されて、楽になれる日なのか。



どちらにしろ、いつか。という言葉そのものを私自身が生きる上でのひかりとして

大事にしていきたいな。と思っています。




自分の言葉、行動、そして考え。



人は、テレビやラジオじゃない。


そこに生きている人がいて、その人が何かを伝えようとするから、それを受け取りたいと思う。


望むことがわかったならば、その力になりたいとも思う。



人を動かすのは、人。



そこに求めるべきは、信頼。見返りよりも。




たとえ、人を思い、それがあだとなって自分が痛みを背負っても。


私は、また繰り返していくのだろうなあ。きっと。



それが、私が歩むべき贖罪の道。