今日も寒いです。多分明日もあさっても寒いです。

そしてシャオです。 ̄O ̄)ノオハヨー



さてさて、それでは前編からの続き。



生まれて初めての大阪。そして生まれてはじめての兄姉との対面。


伊丹空港には、兄が車で迎えに来てくれていました。

といっても、この時お互い言葉を交わしたわけでもなく。


私たちが大阪につくのが一足遅く

危篤状態に陥っていた、母の兄。私の叔父さんは残念ながら

息を引き取られた後でした。その報告を母が聞いていたので

何か話すという雰囲気でもなく。


そして、そのまま叔父さんのお通夜が営まれる公民館へ。

貸衣装屋で礼服を借りたりで、結構あわただしかった。



さて、その公民館へついて、一息入れる事も出来ないまま通夜に入りました。

当然、周りに居るのは私が始めて会う親戚の面々。


誰と話をする、という事も出来ないままただ黙って座ってました。

母は、古い友人や他の兄弟達と話し込んで泣いたり笑ったりしてましたね。



徳之島(他所)で出来た子。みんなそう言わないまでもそういう感じで私を見ていた。

何人かの人は少し話しかけてくれたりしたのだけれど、ほぼずっと一人で

黙って座ってた。母の邪魔をするのも悪いかなと思ったりして。ここは俺の居場所じゃないと

感じながら。


そう、母にはそうは言えなかったけれども、大阪へ行くと決めるまでに

相当な葛藤があった。


兄と、姉が大阪に居る。そして母は徳之島の地へと渡った。

兄と私の年の/差は18だったはず。つまり、兄も姉も幼い頃に母に置いて行かれたという事。

そして、私はそんな事を何も知らないまま、母と二人暮らしてきた。その事は

その時の私には大阪の親戚の心中も、母の事情もわからなかったけれども

おそらく、けして穏やかなものではないだろうと。

そして、私はどんな顔をして兄姉、親戚に会えばいいのだろう?などと。



幼い頃から、人の嫌な部分を様々な形で見てきた私には

大阪の地で自分が置かれるであろう状況というのはある程度予測できていた。

その通夜の席で、見事に私の嫌な予感は的中する事になったのだけれど。



今も、私は大阪に住みながらも殆ど親戚との付き合いはありません。

唯一従姉妹の所と仲がいいくらいでしょうか。


初めて大阪に来たあの時から、10年の月日は流れましたが

やはり私は他所で出来た子。

10年の間に、いろんな親戚といろんな出来事がありました。

でも、どんなに私がそう思おうとしたところで、向こうが私を親戚と見てくれない以上は

どうしようもない。


それなのに自分たちが困った時にだけ、親戚面するような繋がりはいらない。

それでも何か出来る事があればしてあげたい。心の中で葛藤しつつも、私はおそらく

どうしようもなく間抜けなお人よしなのでしょう。そして、弱い心の現われかもしれない。



少し話はそれましたが、結局私が大阪に来て、血のつながりのあるはずの

人々との最初の接点で感じたのは、どうしようもない孤独だった。


通夜の後、やっと落ち着いて兄の家で家族が集まって話をした時も


自分の居場所はどこにもないような、そんな孤独感が消えなかった。

兄は私とは性格も、行動の基準もまるで違っていた。だからどうしても

親近感を抱く事が出来なかった。おそらく兄も姉も同じく私に対して、親近感は

抱かなかったんじゃないかなと思う。なぜなら



おまえはオカンとぬくぬく育ってきたやんけ。



半ば、冗談のようにそういわれます。今でも二人に。その度に私は

自分の生きてきた内容を話ししたくても、母親に捨てられたという苦労に比べれば

私は幸せだったのだからと、結局何も言えないまま。



私が出来る事といえば、ただ一つ

いかに一人で生きていくか。強くなるか。


初めて兄姉が居ると聞いたときに、心のどこかで感じた安堵の気持ち。正直嬉しかった。

それにかすかにでも、期待した私をあざ笑うかのように、冷たい現実だけが目の前にあった。


ならば。


例えどんなに辛くても、誰かに頼らず、期待せず強く生きなくては。

誰かの顔色を伺いながら、目を気にしながら。おびえるような毎日は過ごしたくない。

血のつながりも、何もいらない。


その頃から、そういう考えを強く持つようになっていきました。


その席で、大阪に引っ越して来いという話もされたのですが

それだけはどうしても勘弁してくれと、私は断りました。


高校はどうしても島の学校を出たかった。そこで創られ始めた環境を失いたくなかった。

初めて、自分を変えることが出来た場所だったから。

なんとか、兄もしぶしぶそれは承知してくれたので、無事 島で高校卒業までを

過ごせる事になったわけです。


おそらく、兄の言うままに大阪に引っ越してこっちの学校に転入なんかしていたら

かなり悲惨な学校生活になってたんじゃないでしょうかね。きっと。



そして、大阪から島へと帰った私と母。

ほんの数日間の間に、私の中では確実に色々なものが創られ

そして、失われていったのでしょうかね。


でもまあ・・・


ここから、穏やかな高校生活の日々へと入ります。



というわけで、半生記 その4 後編。終了です。


諸事情によりあまり細かいところまで書けませんが、

大雑把に私が歩んできた人生を書き記して行きます。記憶の糸を辿りながら…。



次回、半生記 その5では高校時代の中盤~卒業間近までにしようかな。

予定は未定。書いてるうちに話が飛びまくるかもしれませんが。


さて、ごそごそと書き連ねて第4弾。シャオです(´∇`)ノんばっス



前回、すばらしい高校生活の始まりからを書きました。


が。


その直後。またまた思いもよらぬ出来事が起こります。

そう、その年はあの阪神淡路大震災があった年。地震が起きたという報道を見て

夕方になる頃には死亡者数も恐ろしいほどの数に膨れ上がり、テレビに映し出される

神戸の町の景色が、あまりにも凄惨でこれはどこか違う国の出来事であって欲しい

なんて、思わずには居られませんでした。


確か、同じ頃にオウム真理教の強制捜査等もありましたね。年明けから

大きな事件が多かった一年でした。



話は変わり、私自身にとってもこの年は忘れられない一年となりました。



それは、1月も後半に差し掛かった頃だったでしょうか。

見覚えの無い人が母を訪ねて来ました。唐突に。


その人と母は何やら話しこんだ後、しばらくしてどこかへ電話をかけ

長時間話をしていたようでした。



そして、数日が経ち



いつになく真剣な様子で、母が私に大事な話があるから。というので

何を改まって、何かあったのかな。とその話を聞くことに。



母が、もともと大阪の出身という事は知っていたのですが、徳之島へ渡る事になった

きっかけも、大阪に居るはずの親戚の話も深く聞いたことはありませんでした。

ただ、母はちょうど日本が太平洋戦争へと突入する直前、昭和12年の生まれで

母を含めて9人の兄弟姉妹が居るという話は聞いていました。

それと、母の両親、私の祖父も祖母もすでに他界しているという事も。


私の叔父さん、とは言ってもそういう状態なので面識はまったくありませんが

母の兄にあたる方が危篤状態になっている。

それを伝えるために先日の来客があったという事。


そして、叔父さんが母にどうしても会いたがっているということ。



母は、20数年ぶりに大阪へ行くつもりだと私に話しました。


ああ、俺はそういうの苦手だし親戚といってもまったく面識もないから

俺は島で待ってるから行っておいでよ。


私は母にそう言ったのですが、母は何か辛そうな表情をしながら

どうしても私にも一緒に来て欲しいと言うのです。



そして、母の口から出た言葉を私は信じられなかった。



お前に会わせておかなければいけない人が居る。しばらく考え込んだ後母は

苦しそうにこう言いました。


大阪には、お前の兄姉が居る。だから、一度会わせとかなと思ってる。


何のことか、当然わかりませんでしたがよほどの事なんだろうなとは感じました。



しかし、まさか


自分に父親違いの兄と姉が居るとは。



その話を聞いた時、私は16になったばかりでした。

そして、その16年間は母と二人で生きてきた。



私には兄弟も親戚も居ない。二人なんだ。そう思って生きてきた。



その中で、突然の母の告白にとても戸惑いました。

嬉しいような、どこか、悲しいような。

そして、その告白と兄姉が居るという事実。その裏側にある様々な事柄に

大体の察しもついたので、変かもしれませんが申し訳ないような気がした。


そう、私は母に育てられた。例え貧しくとも幸せだった。

でも兄と姉は違う。その事に罪悪感に似た気持ちを感じました。


母の、どうしてもその兄と姉に私を会わせたいという気持ちがわかったので

少なからず抵抗はあったのですが、大阪へ行くことにしたのでした。



母親の言葉は関西弁、私の言葉も関西弁。でも

生まれてはじめての大阪。そんないきさつが無ければ、わくわくしていたでしょうが

なんとなく、心に重くのしかかる様々な感情の為に気持ちは沈んでいたのを覚えています。


徳之島から飛行機で鹿児島へ飛び、そこから飛行機を乗り継ぎ大阪へ。

今はどうかわかりませんが、以前は鹿児島で飛行機を乗り継ぐ為に2時間ほど

待たなければいけなかったのですが、その待ち時間の間も憂鬱な気分のまま。


伊丹空港へ降り立って空港玄関を出た時に、最初に感じた事は

なんて、空気がくさいのだろうって思った事。

その次に、ちょうど一月末あたりだったのでとても寒かったのを覚えています。



と、ここまで書いてきましたが、少し疲れたので今日はここまで。

次は後半という事で。


さてさて、今日も今日とて寒いですねぇ。シャオですこんばんは。


今回は予定通り中学卒業から高校生活始まりくらいまでを書き記してみます。

人と接する楽しさ、ほのかな恋心なんてものを経験した入院生活。

でも、実際入院していた期間は1ヶ月くらいだったのかな。密度は濃かったけども。


それはさておき、少し時間をさかのぼって中学時代。

実は当時小学校後半から、好きな女の子が居たんですね。同じ地区の子で。

まあ、ただ遠くから見てるだけ。でしたがね。

小学校までは一つしかクラスがなかったから、同じクラスだったけれども

中学に入ってからは5つに増えて、残念ながら別なクラスになって。

でも、2年のときに同じクラスになった。うれしいよねそういうのってね。


髪の色とか、瞳の色とか。色素がちょっと薄い子だったから茶色でね。

廊下に立って他の同級生たちと話してるその子の髪の毛が、太陽の光で

とても綺麗な色に輝いて見えて。ぼーーーーっと眺めるのが楽しみだったなあ。


そうそう、一度、教室へ急いでた時。その教室は2階にあって階段を上って

そのすぐ左側にあってね。で、何を急いでたのかは忘れたけれども、階段を駆け上って

角を曲がった瞬間、誰かとぶつかって。

見ると、その女の子だった。ちょうど私の胸の所に頭があって良い香りがした。

まあ、それ以上に慌てちゃってゴ・ゴ・ゴメン!!って教室戻ったんだけども

しばらく顔が真っ赤になっていたんじゃないかな。


ヤレヤレヽ(~~~ )ノ そういう時代もあったのにねえ・・・


そんな事があっても別にそれが進展するわけもなく。

それに私はあんまり学校も行けなかったので、時はどんどん過ぎて。

3年の時も同じクラスではあったけれども話とかした記憶は無いかな・・。


まっ、第一私は学校サボってるって事で嫌われ者だったからね。


さて、そんななか人生の分岐点。高校入試を受けるかどうしようかって悩む。

担任の先生は、お前じゃ無理だろうとか言うし。母に苦労かけるのもイヤだったから

そのまま何か仕事に就こうかなと思ったりして。まあ結構悩んだ。


でも、母は私に言ったんですよ。今の時代せめて高校くらいは出ておけとね。


それで、決心はつきましたが、何せ学校行ってないのもあって

学力がテンでダメ。まあ得意な分野は本とか好きだから問題ないけど

英語やら数学やらは、もうまったくだめで。


島には進学校と、商業高校、農業高校の三つがあって。


そこで考えた。島で当時一番評判の悪かったのが農業高校。

とにかく悪いのが集まるという事で。

同級生のほとんどは、商業高校か、進学校へ行くって事もわかっていたので

あえて私は、農業高校を受験する事にした。それでも受かるかどうか

わからないから、不安はあったんだけどね。


自分を知らない、本来の自分を出せる場所を求めて。というのが一番大きかったかな。


まあ、ぶっちゃけ数学とかさっぱりわからん。という状態で2,3問しか解いてない

にもかかわらず、何をどう間違えたのか受かっちゃったのね。これが。

まあ、受験した中で落ちた奴は一人しか居なかったはず。


そして、いよいよ中学卒業式の日。

ぜんぜん学校生活の思い出なんてないから、特別寂しくも無く。

ただ、ずっと好きだったあの子と離れる事はちょっと悲しかったかなやっぱ。


まーー。


卒業記念の花束贈呈とかでクラスの同級生が並んだりするシーンで。

その子の近くに立ったら、さりげなく距離あけられた。


ってことで、見事玉砕。さらば青春。とっとと家帰った。



そして、日々は過ぎ高校入学。


私の母校、徳之島農業高校はその当時本当に生徒数が少なくて。

たまたま私が入学した年度から入ってくる子が増えたんだけども、

在校生が2、3年生あわせて20人弱くらいだったんじゃないかな。確か。


あまりにも評判悪かった過去があってそうなっていたみたいなんだけど。


その時入学した生徒は60ちょっと。在校生より多かった。


学科が、園芸工学科という、野菜や果物、草花なんかを育てる基礎を学ぶ学科と

情報処理と家庭科をメインにした学科。

まあ、言わずもがなで園芸工学科というのは男の子のクラス。情報処理は女の子。

きっちり一クラスずつの入学になったのかな。それでも卒業する頃には、

だいぶ減ってしまっていたんだけどね。


私の出身中学からそこへ入学したのは、私を含めて10人も居なかったかな。

幸い顔見知りくらいの奴と、子供の頃から仲のいい奴。

後のクラスメイト達は大抵その学校のある地域出身の子だから、面識は無い。

なので、自分なりの新しい環境を作る出発点としては申し分の無い形。


入学してすぐに、何人か付き合いやすそうな奴から声かけたりして、友達を作った。

格闘ゲームとか好きだったので、それで話が弾んだりしてね。


そして、まず最初に始めた行動、それはバスケ部を創ることだった。


なぜか学校には、野球部、バレー部、テニス部、水泳部しかなかった。サッカーの

ゴールもおいてなかったので、もちろんサッカー部もなし。


中学の頃、お前は身体弱いから出来ない。って断られて、それでもやりたかったバスケ。


学校側に打診してみると、とりあえず5人集めてきたら同好会って形で認めてやる。

といわれた。なので仲良くなった子と幼馴染誘って早速同好会を立ち上げた。


とはいうものの、体育館のコートは一面分しかないので、ハーフコートでバレー部と

兼用という形になったんだけど。バレー部の子には最初凄くいやな顔されたなあ^^;

でも、これでやっと思う存分バスケをする環境が出来上がった。


でもまあ、あくまでも同好会って形なので一応顧問の先生はついてもらったんだけど

バスケ知らない先生だったから教えてもらう事は何も無くて。だから基礎練習とか

そういったものはなし。クラスメート誘ってメンバー集めて試合して遊ぶ。

バレー部が試合前の練習とかする時には、体育館使わないようにしてたけど。


最初乗り気じゃなかった連中も、やりだすと熱くなるみたいで段々人数増えたりして。

たまにバレー部の女の子も混ぜてって言ってきたりするから一緒にやったりしてね。

最高に楽しかった。


喘息の方はそりゃ激しい運動したらやっぱり発作も出るんだけど、薬でごまかしごまかし

だから、最初やり始めた時は家に帰ると制服着たまま倒れるように寝てたなあ。

よく母がお前何して帰ってくるん?って心配してた。


バスケするために学校通ったって言ってもいいくらい、毎日それが楽しみだった。

今でもまた、あの時の同じメンバーで学校に行って体育館借りてやりたいよ。とても…。

みんな元気かなぁ。バラバラになってしまうのは寂しいね。


高校はほんとに楽しかった。自分自身を変える事も出来たし、たくさん友人も出来たし。

好きなバスケのおかげで、だいぶ体力もついてぜんそくもマシになって行ったし。


まーもちろん、まともに勉強ってのはやってなかったんだけどね~^^;

でもほんと、今思えば学校行ってる間に学力はつけるもんだ。つくづくそう思うよホント。


なので、中間テストとか、期末テストってのはタイヘンダ。


数学と英語を覗けば、それなりに点数は取れたんだけども、その二つはほんと苦手。

いつも赤。まっかっか。情熱的だね(違

でもね、都会の学校、特に進学校とかの子には信じられない話かもしれないけど

追試受けたりしなくても、単位をもらえたの。


その代わり、先生の家の引越しを手伝うとか、雑用を手伝うとか。まあそういう条件でね。

しかも、手間賃までくれるから良い。まあ学力は上がらないけどもね^^;


どうかなあ、追いつけ追い越せ周りはみんなライバルだ。なんて競争を強いられる

そんな時代だけど、それについていけない私なんかはそういう環境が最高だった。

賛否両論もちろんあるだろうけど、いいことたくさん学べた気がする。


ま、それはさておき順風満帆な高校生活を楽しむ私。成績は別として。


季節は過ぎて初めての文化祭がやってきます。


都会の学校の学園祭みたいに色々やるわけじゃないので地味なんだけど

何か変わった事がしたかったので、思い切ってコントをやることに。


で、コントというからには相方が必要。どうしようかな。と考えて選んだ相手は

クラスの中でも本当に目立たない、背の小さい子。でもなんか独特の雰囲気でね。

ものすごくシャイな子だったんで、連れ出すのにホント苦労したけど、

最終的にその気になってくれたので、決定。後はネタを創るだけ。


しかーし。色々ネタを考えるんだけれども、タイプが違いすぎてタイミングが合わない


なので、結局最終的に決めたのは古典的漫才。


底がつるぺたのスリッパを職員室から拝借してきて、それをツッコミに使わせる。

なので私はボケ担当。声も小さい子だったし喋りが苦手なので、とりあえずこれ持って

合図したら思いっきり叩けとだけアドバイスして本番。


まあ、ネタを公開するのはやめときます。それなりに受けたけどね。

異色のコンビというのが受けたかな。やっぱり意外性が大事だよね。

かなり緊張したのを覚えてるけど、とても気持ちよかった。


相方もそれまでの目立たない感じの子っていう印象から、実は面白い奴。に

みんなの印象が変わったみたいで、そっちも狙い通り。だったので満足満足。

本人は、周りからお前やるなあとか言われてかなり照れていたけど。


んで、仕掛けた私といえば。


いつのまにやら変人のレッテル貼られてるし(ぁあああ

そしてそのままそれはドSという要素も加わり現在への布石となる(ぁあああああああ


誰に遠慮する事も無く、迷惑かけてなければ楽しくやればいいじゃない?

せっかく同じ時間を過ごすなら。ね。


ああ、でも前に書いたけど卓球やっててチョークの小箱に頭思いっきりぶつけて

額割れて血だらけになったのってこの頃。

たまたま担任の先生が学校残ってたから、病院連れてってもらったっけ。

迷惑かけとるがな。あかんやん。


さてさて、そんな風に色々試みたり実行したりしながら充実した高校生活は過ぎていく。

この時期、本当に自分がやろうと思ったことに挑戦する大切さを学んだかな。

考えるよりも、行動してみる。まだまだ若かった頃。でも実際やってみて初めて感じる

達成感とか、その後に反省すべき事とか。本当の意味で今を楽しむ事。大事だよね。



しかしこの後、私の人生の中でもかなり衝撃的な出来事が起こります。



が、それはまた次回改めてという事で。長くなりすぎるから。






というわけで、内容をすっきりさせてみました。

結構長い文章を書いたりするので、記事の続きを読みたいという奇特な方は

続きを読む。をクリックでお楽しみください。自伝もシャオの半生記に変更。

というわけで、新成人の若人のみなさん、おめでとうございます。

成人式で袴着たかったのに。

成人式そのものにも出られなかったシャオです、こんばんは。


さてさて。新しい門出を祝う成人式ですが、悲しい事に

年々モラルの低下などで、マスコミに取り上げられるのは醜態ばかり。


中でも、私の知り合いや友人も沢山居る沖縄県の成人式の報道は、

ここ数年毎年のように酒を飲んで暴れる若者の姿が目立ちます。

もちろん、ニュース等で取り上げられる若者は一部に過ぎないのですけど。


私は個人的に沖縄がとても好きです。生まれ故郷も近いし。

でも、徳之島とは違って中国大陸からわたった文化も根強く残る為

雰囲気的にも全然違う国のような、そんな感じがするしね。


青い空、白い雲、どこまでも続く水平線と、.豊かな自然に囲まれた地で

若者たちはなぜすさんでしまうんでしょうね。

満たされているようで、満たされない時代。なのでしょうか。


ああ、ちなみにどの都道府県でも居ますけどね。モラルの無い若者は。


個の存在が、あまりにも膨大な情報や有り余る物に流されて

必要とされなくなるような、そんな世の中。


右へならえを強要される中で、それについていけないと居場所を無くしてしまう。


自分はここに居る、こんな事を考えている、こういうことがしたいんだ。


今の若い人たちは、主張の場を求めている。そして

自由という言葉の意味を履き違えている。


だから、目の前にある主張するべき場所をうまく使えない。


ネットが普及するにつれ、自分のホームページを作る人とか昨今のブログブーム

ネットゲーム人気や、某大型掲示板への参加など。

個を主張する舞台はそこにあるのだけど、なんでもありというわけじゃない。


何者にも束縛されず、邪魔されず。自分が言いたい事を言って

やりたい事をやって。それは自由じゃない。


誰かに合わせる、誰かのまねをする。そしていつの間にか

自分に問いかける事を忘れてしまえば、ただの垂れ流しになる。


自由を手にするには、自分たちのモラルがまずしっかりしていなければ

ただの無いものねだりの主張にしかならない。それはただの傲慢になる。



自由はすぐ身近にあるにもかかわらず、自分たちの行動を省みない身勝手さで

足かせをつけられてしまう。それが気に入らないからすべてに反発する。


人の本質は悪かもしれない。でもそんな風になりたくないと誰かが思うから、

混沌の中に秩序を保つために法は生まれる。

そして、また誰かが息苦しさの中に自由を求めて混沌が始まる。


何が正しいのか、何をするべきなのか。

常日頃からそんな事を考える人は少ないかもしれない。


目に見えるものすべてに苛立ちを感じても

自分の両親さえも憎く見えてしまっても。

何に対しても情熱を持てずに居ようとも。誰かの愛を感じられなくとも。


堕ちる事はたやすい。あっという間に転がり落ちていく。

ただし、そこからもう一度這い上がる事はとても難しい。


自分自身にも、後に続く存在のすべてに誇り高く胸を張って存在を主張できるように

そんな風に歩いていって欲しいと願います。


目に映るものすべてが暗く見えても、その心にひかりを抱いて。

例え小さなひかりでも見失わないように、信じていればいつか道を示してくれるはず。


これから大人として社会に羽ばたいていく若者達に、幸多からん事を。



はー。歳は取りたくねえ・・・。ヤダネー。


オシマイ

さてさてさてさて。

自伝は今日はお休み。作者急病のため休載します。

急病ってのはウソだけど。シャオです(/・∇・)んばっす


そしてあちらさんも(・_・ )ノこちらさんも(・ ・)そちらさんも( ・_・)ノおやすみい♪


また何か書きたくなったら出てきます。

さて、続き。

今回は色々あった中学時代の中でも、自分自身の目覚めのきっかけになった

入院生活を話してみようかなと。


中学の頃には、ホント登校拒否児になってしまった私。

それでも、何人かの本当に今でも親友と呼べる友達のおかげで、そんなに卑屈には

ならずにすんだかな。逆にそういう友達が見つけられた事が今でも財産だと思う。


でも、今にして思えば学校行きたかったねやっぱり。勉強好きだもの。

頭悪いけどね。自分が求める知識が満たされていくのはとても好きだ。


さて、以前の日記で中3の時に足の靭帯を切って入院した話を書きました。

それについてはいい思い出があるんだ。とも。


あの頃の私は本当に人と話すことが苦手で、学校行っても黙って座ってることが

多かったりしてね。男、女関係なくホントに話するのが苦手だった。

今の私を知る人はとてもそうは見えないって思うだろうねきっと。


で、今の私はそんな過去を微塵も感じさせないほど饒舌。放っておいても

一人でしゃべるくらいに。

そうなったきっかけが、この中学3年の時の入院生活の出来事の中にあるんです。



ホントに根暗という言葉がぴったりだった私は、中2の時にぜんそくの発作が原因で

入院したときも、ほぼ一人で過ごしていました。またその時入院したのは

小児科の病棟ではあったのですが、たまたま大部屋に私一人だけという形でね。

話がしたくても、周りに誰もいないし、ゲームボーイ片手に日々を送って。退院。

しまいにゃ病院居るのが寂しいやらつまんないやらで、脱走みたいに退院しちゃった。



それが、今度の入院では状況が大きく違ったんですね。まず入った部屋も

周りに大人が何人か居る大部屋で。


何人か見知った顔の看護士さんが居たんですね。同級生のお母さんも居たの。

おかげで、声かけられて話したりするようになったりしてね。ぜんそくどう?とかから。

で、まあおそらく本来私の持っていた性質が引き出され始めたのですね。


右ひざの靭帯が切れていたので、膝にギブスを巻かれていたんですが

私はそんなことお構いなしに、車椅子乗って病院の中をうろうろうろうろ。

人間嫌いってわけじゃなかったんで、患者さんが集まってるテレビ置いてある所

とかに行っては、おじいちゃんおばあちゃんとなんかわいわい話ししてる。


とても不思議。同級生とかとはまったくといって良いほど気が合わないのに

年配の人と話すと自分が素直に出せた。それがまたウケがよかったの。

やっぱり関西の血なんだろうね。喋りが自然と笑いを生む形になる。


ご飯の時間になると、いくつかの部屋の分がまとまって荷台に載せられて運ばれて

くるんですが、あっちの部屋こっちの部屋と、運んで回ったりしてましたね。

それがまた、おじいちゃんおばあちゃん喜んでくれるのがうれしくて。


看護士さんとか婦長さんとかもよく話すようになって、とても楽しかった。


たまたま、近くの部屋に高校生のお兄さんが入院してて、仲良くなってね。

私は母と二人の生活だったので、兄弟がとても欲しかったものだから、

勝手にお兄ちゃんおにいちゃんってなついてて。その人もかわいがってくれてね。

一緒に当時スーパーファミコンがあったのですが、スト2とかやって遊んでました。


で、その時入院していたのは病院の3階で、以前入院した小児科の病棟は2階。

なので、なんか懐かしくてたまにうろうろしに行ってたんですよ。

そしたら、高校生の女の子が一人入院していて。たまたまその子と仲良くなって。

たしか、何かの手術を受けることになっていてね。その手術の当日

やっぱり、不安だったんでしょうね。ベッドに載せられて手術室へ運ばれる時に

見送りに出た私の手を握って、なきそうな顔してた。がんばってねとか声かけたりして。


んでまあ、無事に手術は成功したらしくて。しばらくして部屋を覗きに行くと

元気そうにしてたんで、思い切ってまあ、病院の中でしかないですけど、デートに

誘ったりしてね。かわいい思い出です。

でもね、今にしておもえば、その女の子学校では結構人気の子だったらしくて

何人か同級生の高校生の男の子とか見舞いに来てましたよ。

私、そんな子とデートしてもらえるなんて、幸せものでしたね。(^ー^* )フフ♪


ところが。


私、同級生とはとことんかみ合わないのですが、年下の子からは凄く慕われる。

弟とか妹凄く欲しかったので、子供の頃母が経営する食堂があったときもお客さんが

子供つれてくると、自分のおもちゃとか全部引っ張り出して子守しててね。

ただ、純粋に自分が寂しかったのかもしれないけど、今でも若い子ほうっておけない。

シャオさんオヤジだよね。いい意味で。なんてTEVAに言われた(^^;


で、まあそのデートの最中たまたま、他の病室の小さな子達が私をみつけて。

いつもその子達と遊んであげたりしてたから、つかまっちゃってね^^;

女の子ほったらかしにしちゃって、怒ってどっかいっちゃってねえ~・・・。

悪いことしたなあ。って思ったものの後の祭り。なんとなく顔あわせづらくなって

その子が退院する日はこっそり見送ったものです。もったいないことしたな(マテ


そんなこんなありながら、まあ楽しく入院生活を送っていたのですがね。


どうーもね。私の隠れていた本能が目覚めたのはその時期。

島にある某大手病院に入院してたんですがね。そこは鹿児島県本土とかから

研修の先生とか、看護士なりたての人が研修にきたりするくらい大きい病院だった。

で、大抵2ヶ月とかで入れ替わっちゃうんだよね。特に看護士さん。


その時、私が入院してた3階にも新しく研修で来た看護士の卵さんが3,4人居てね。

これが、今思えば美人ぞろいだったのだけれど、当時私はまだまだ子供だったから

そんなことは2の次。とにかく話すと面白いので、あれこれあれこれちょっかいかけたり

してね。みんなにニックネーム勝手につけたりして。もうみんな仲良し。

しまいにゃナースステーションで飲み物片手に語り合ったりしてる始末。子供って

そういうの許されるから怖いよね~。婦長さんも混じってたし。おいおいって( ̄ー ̄:


そんな中特に仲のよかったのが、身長がやたらと高い看護士さん、170くらいあったのかな。

私も中学時代はそのくらいだったけど、女の人でそれだけの身長の人初めて会ったので

でけーなー、でも俺の方がちょっと勝ってるなぁ。なんて。最初そんな感じだったかなあ。

うっさい!とか怒られたけど、とても楽しい感じの人ですぐに打ち解けて話するようになった。


他にも色が透き通るように白くて、おっきなめがねがなんかかわいい熊本の人とか。

白いからシロちゃん。とか犬かよ!みたいな感じ。で仲良くなったりしてね。


んで、まあ、背の高い人の話。


今だから言えるんだけど、研修の看護士さんって病院の6階にある部屋を寮代わりに

生活しててね。もちろん部外者立ち入り禁止だし男子禁制。秘密の花園ってやつ。


でも私はこっそーりよく遊びに行ったものでした。その部屋に。やるな俺。


とはいっても、ドキドキしたのは入っちゃいけない所に入るからって所だけで

男とか女とか意識してのそれじゃなかったなあ。

ジョージアの缶コーヒーもってって、それが好きな人だったから。

二人で、当時夕方に再放送とかしてた、あぶない刑事をみる。それが楽しみだった。

もちろん、色々な話をしたりして、それがとても楽しかったし新鮮だった。


正直な話、えっちぃ本とか好きだったし性的な目覚めもとっくに過ぎてる時期だったけど

まだ、誰かに対してそれを求めるって所には至ってなかったのかな。

まさに、プラトニックだね。穢れていないあの頃に戻りたい(ぁあああ


んでまあ、そんなこんなで病室におとなしくしてる時も、抜け出してこっそり遊ぶ時も

凄く凄く楽しい時間を過ごしていたんだけどね。


自分がやってわかったことなんだけど、靭帯って一本じゃないらしくて。

だから、全部切れちゃったとかじゃなければ問題ないらしく。

逆に切れずに伸びたりするほうが、後々困った問題になるんだとさ。


なので、私の膝の靭帯も特に手術するとかじゃなくて、ギブスはめてそのまま

経過をみていくっていう形だったんですね。


んで、途中で内視鏡の検査ってやつをすることになった。

膝の一部に小さな穴をあけて、そこからカメラを入れて内部をチェックって奴。

簡単な手術みたいなものだから、心配要らないよって。言われてね。


でまあ、当日になって手術室に入って。

別に全身麻酔じゃないから、短パンとTシャツでいいよ。とのことだったのでその格好で。

そして、局部麻酔をかける事になって、脊髄のところに注射打たれたのね。


しばらくして。


おいおい、逆の足が麻酔かかってます!!

って、これ言わなきゃまずいよなと思ったんで、そのまま報告したんですよ。


そしたら、麻酔の先生あわてちゃってね。どうしたもんかと何やら相談した後

ああ、全身麻酔に切り替えます。ときたもんだ。

なんのことやらそのときにはよくわかってなかったんだけど、状況はそんな事

お構いなしにとんでもない方向へ進む。


じゃあ、服全部脱いでね。なんてあっさり言う先生。へ?って感じ。

全部ってパンツも?って聞くともちろん。とこれまたあっさり。


ああ、言い忘れてたけどその手術室。そんなに広くなかったんだけど

例の研修の看護士さんとか先生とかが手にノートやら何やら持って大勢入っててさ。

周りをぐるっと取り囲まれてたのよ。


そう。まさに

その集団の中でストリップをやれというのかコノヤロー!状態。


そりゃもうあなた、中3といえば立派な男ですよ。そんな恥ずかしい事できるかああ!!!

と思うんだけど、周りの空気はいたって冷静。反論なんてとおるわけもないわなと

覚悟を決めてすっぽんぽんに。


はて、なんですっぽんぽんにならにゃあかんのだ。と思ったら

意識がない間に、小とかしてもいいように、カテーテルとかつけるため。らしく。


つけたことある人、わかるよね?ね?ね?


つけたことない。って人。今後の参考にしてくださいな。


まだ麻酔始まってないので意識ははっきりしてます。でもすっぽんぽんです。

周りにうら若き乙女の看護士さんとか、ヤローがわんさかいます。それだけでも

かなりイヤです。が。これから起こる悲劇にくらべりゃ見られるくらいなんてことねー。


何をされるんだろうと、おびえていた私。

ふいに、むんずとばかりにちん○○を捕まれる。


まあ、今は立派に成長してますけど、当時はまだ包茎の状態。

その皮を無理やり引きずりおろされる。これがまた激痛。


おいおいおいおい何しやがる!!と思うのもつかの間


激痛が私の大事な○○ちんを襲います。何事かと見ると

先端の穴に小指の先ほどある管がグリグリとねじ込まれていくではないか!

これねえ、すさまじい激痛ですよホント。忘れられない。


んで、その時ちょうど口のところに麻酔かけるためにすっぽりマスクはめられて


イタイイタイイタイイタイイダダダダアアアアア!!!!ギャアアアアアアア!!!!

と叫びながら、麻酔によって意識が遠のいていく私。


でも、その落ちていく意識の中でかすかにみたんです。



ノートで顔隠してるけど、思いっきり笑いこらえてる若い看護婦さんの顔。



さて。気がつくとベッドの上。仲のいい看護婦さんが一人。

あ、おきたおきた~。とか言ってる。その人もまた美人さん。石田ゆかりだっけ?

あの線の細い方の人。にそっくりのきれいな人。


まあ、無事に終わったとのこと。でほっとしたのもつかの間。

例の管がまだ入ってることに気づく。


ああ、俺もうオムコにいけない。って言ったらツボにはまったらしく爆笑してたな。涙流すほど。

こっちは笑い事じゃないんだけどさっ。


んでまあ、その綺麗な人に今度はその管抜いてもらって。これがまた痛かったんだけど

それ以上に顔なじみにそんな事されるほうが恥ずかしくてねえ・・・。

ああ、でも見事にトイレ行ったら血が出てたよ。染みたなぁあ。


内視鏡検査の結果も特に問題なく、順調に回復して退院を迎えてね。


とても名残惜しかったなあ。特に背の高い一番仲良しの看護婦さんと離れるの。

そりゃそうだよね。あれは恋だっただろうから。


でもまあ、退院してからもしょっちゅう遊びに行ってたんだよねこれが。

相変わらずジョージアとあぶない刑事。楽しかった。


と、何やらその人が参加している社会人バレーの試合があるから応援しにきてよ。

とのこと。面白そうだったのでイクイク~って決定。


数日後にそのバレーの試合が近くの体育館であってね。応援しに行きました。

男女混合だったから、いろんな人が参加してて結構楽しそうだったけど実際

バレーにはあんま興味ねーからいまいちわかんね。って思ってたら試合終了

残念ながら、リーグ途中で負けちゃったんだけどね。彼女のチーム。


んで、終わったら一緒に帰ろうって約束してたので、閉会式終了まで待ってて

一緒に帰ることに。ところが、どうもいつもと違う。様子がおかしいことに気づく。


いつものようにジョージアのコーヒー買って、部屋に行って。

座り込んだと思ったら、体育すわりのまま、こっちに顔見せたくないのか背中向けて

よく見るとなんか、泣いてるようだったから、どうしたん?って声かけた。


そしたら、とても嫌味な事言われた。って言うので。

なんだなんだ、何言われたん?って聞いてみると、試合の時

相手のチームのおっさんに、おまえでか過ぎるぞとか、邪魔だよとか言われたらしくて。

まあ、島のおっさんはちっこいからひがんでるんだろうけどさ。


あーそういえば俺も初めて会ったときに身長のことでちょっかいいれたなあ。

悪い事したかな。傷つけたかな?なんて。ちょっと胸が痛んだ。


わたしがんばってるよね?って聞かれて、うん。もちろん。って答えるしか出来なくてね

今だったら、もっと気の利いた台詞でも、行動でも出来ただろうけど、その当時は

それが精一杯だったかな。


なんかその場に居る事が逆に悪いような気がして、あわてて帰ろうとした私を

他の病院の職員の目もはばからずに病院玄関まで送ってくれたなあ。

逆に、今思えば何も出来なくてもそばに居てあげたらよかったかなとか思ったり。

それを望んでいたかどうかは、わからない事なんだけど。


その後、出身地の鹿屋の方へ帰ったって聞いた。

なんとなく会いに行きたいけどいけないような、行っちゃ行けないような。

緩やかにでも確かに、どこかで子供から大人になっていくその途中だった。


・・・でも、今でも大事にしてる思い出ですよ。とめちゃん。今はどうしていますかね・・・。

まあ、22,3の若いお姉さんにとめちゃんってあだ名つけるのもどうかと思うが。

もっと俺が早く生まれていればよかった。とか結構口説いてたなぁ・・・。バカだったなあ。




っということで、自伝その2終了です。


自分の中で色々なものが形を変えていった頃。それでも学校へいけば

また、しゃべらない、何を考えているかわからない私を演じていましたが。

それが一番楽だからというのも知っていたからでしょうね。


そうそう、同じ病院の看護婦さんで一人、いつも夜中に発作起こして病院行くと

なぜか頻繁に会う人がいて。その人ともホント仲良くて色々話とかしたり、元気付けて

もらったりしました。発作を鎮めるための吸入は結構時間かかるので、その間ね。


その人がある日、転勤か何かでどこか遠いところへ行くと話してくれて。

その時


また、会えるよねって泣いてたんです。あれはどんな意味だったんだろう・・・。


俺ってモテモテ?とか。あはは・・・^^;


さて、次回は中学時代終了時の話から高校生活編あたりまで。


読んでくれる人が居るとうれしいね。


というわけでシャオですこんばんは。

今回はちょっと、自身の半生について書き記してみようかなと。

かなり長くなりますし、面白い内容じゃないです。なので

読みたい人だけ、読んでください。




ちなみに今回の内容では省きますが色々あったとんでもない出来事

興味あるって物好きな人は沙皇龍危機一髪。 ←クリックしてどうぞ。


さてさて。

うちの母親って、怖かったんですよ。そりゃもう小さいころなんてすげー怖かった。

大衆食堂営んでいたのですが、そこにたかりに来たヤーさんだかチンピラだか

投げ飛ばすわ、夜這い賭けに来た大家のおっちゃん投げ飛ばすわ。

確か合気道をやっていたと本人は言ってたんですがね。



何も腕折ったり脱臼させたりしなくても┐(~ー~;)┌



おかげで、やーさん連中はあそこのおばはん怖いから手を出すなとなったらしく

それから一切店に来なかったですよ。めでたしめでたし。

私は当時保育園くらいの年齢なのですが、鮮明に記憶に残っています。


逆らったら殺される。ホントそう思わされる事が多々ありましたね。

しかし、幼いころも相当にバカだった私はちょちょく母を大激怒させていましたが。

いやあーさすがに両足の足首もってさかさまに湯船に頭突っ込まれたりした時は

殺されるかと思った、かなり。


手で打ったら手が痛い!という筋の通ってるのか通ってないのかよくわからない

理由で、まあ様々な武器を使う母。

「なに~!!今なんて言うた!!??」 っていう台詞の後には

手にお玉とかスリッパとかベルトとか、まあいろんなもん持ってましたねオソロシイ

友達が遊びに来ていてもお構いなしなので、そりゃもうアイツの母ちゃんこええ!

ってことになる始末。


さてさて、そんな母の愛に包まれてすくすく成長していく私。


かなりおませさんだった私は、エッチな本とかに目覚めるのも早かったんですね。

当時小学校5年生くらいだったかなあ。

沖永良部島という所に、旅行しに行った時に旅館にあったエッチぃ本を一冊

いただいて帰ってきたわけですよ。(^ー^* )フフ♪


確かタイトルはお楽しみ女子高生!すばらしい。


まあ、時々こっそり眺めてはハァハァしてたわけなんですが

たまたま、急いでいて机の一番広い引き出しに入れたまま、出かけてたんですよ。


ええそりゃもうご期待通りに、帰ってきて確認すると


ねえええええええ!!!!


背筋がさむ~~~くなるあの感触。男の子なら一度は味わった事あるはず。

しかもうちの母はとんでもなく怖い


まさに命の危機。


「○○!ちょっとここ来て座り!!」

ああ、短い一生だった・・・と覚悟を決めたんですが、意外なことに

「まだ早いねん。アレはおかんあずかっとくから、もっと大人になったら返したるわ!」

いやなんつうか、何を持ち出してきてボコボコにされるかとひやひやしてたのですが

思いがけない言葉に唖然。


しかし、よくよく考えてみるとある意味怖いよね。成長してから返されてもね(ぁあ


っとまあ、そんな事もありつつ緩やかに大人への階段を上る私。

つってもまあ、そのほかにも色々とその手のブツが手に入るルートはあったんですがね。

中学くらいになると、大体みんな目覚めてくるから、回ってくるんですよ。


しかしまあ、時として自分が誰かに上げたものが、回りまわって手元に戻ってくる

ということもありましたね。世界は狭かった。


まあ、その頃になると成長期ですからね。私の方が母より大きくなって。

しかも反抗期真っ最中ですから。そりゃもう激しくケンカしたりしてねえ・・・。


うちは親子二人で話をするときには、関西弁なので島の友達がうちに初めて

遊びにくると、何で関西弁?と必ず聞かれたものです。不思議と島の人と話すときは

あっちのイントネーションになるので、家の中に母と友達がいると、不思議な空間が

展開されるわけですよ。二元中継みたいな。


で、まあ大抵うちの母は人間大好きなおばちゃんだったので、私の友達にも

心安く話しかけたりするんですね。高校の頃なんかはうちでタバコ吸ってた奴が

おばちゃんタバコ一本頂戴とか言っても、喜んであげてたし。ヾ(・o・;)o ォィォィ


ただまあ、反抗期真っ盛りの中学の頃なんてのは、友達と遊んでる空気を

ぶち壊されるのがいやでいやでたまらない時とかあってですね。

壮絶な口げんかに発展することもしばしばあったんですよ。それがまた関西弁

だから、友達ドン引きになるわけですよ。私と母にしてみればそれもまた

親子のコミニュケーションという奴だったんですが。多分(ぉ


まー、でもちょっと寂しかったかなぁ、だんだん母の威厳がなくなっていくのを

感じるのがね。昔のように何か持って追っかけまわすって事が出来なくなっていくのが

ありがたいような、切ないような。なんともいえない思春期ですな。


さてさて、話はそれからずっと前にさかのぼりますが

確か小学校の4年生になった頃だったでしょうか。ある日海へ泳ぎにいったんです

私が当時住んでいたところは井の川というところで、浜部に堤防があってそこに

漁師さんが乗る漁船とか止めてある小さな港もあったんです。で、友達数人と

泳ぎに出かけたんですね。


みんなでわいわい遊んでいて、とめてあった漁船につかまったりしながら。

そしたら、不意に足元の砂が崩れ始めて、どんどん地面が無くなっていくんですよ。

といっても、そんなに深いところではないんですが何せ子供でしたし、何より

当時の私は泳ぎがそんなに達者ではなく、パニックになってしまって見事に溺れて

あわや、一緒に泳いでいた6年生の男の子に助けてもらって事なきを得たんですが。


うちに帰ってその話をすると、母はなにやら考えたらしく。しばらくして

近所の知り合いの一家と海辺へキャンプをしにいこう。と言い出しました。私は

キャンプって初めてだったのでそれはそれはうれしくて、喜んで行く事にしたんです。


が。


母の思惑はキャンプとは別の所にあったんですね。

潮が引いている時間帯は、磯に潮溜まりが出来るんですがね。深さは大体

2,3メートルくらいかな。私が溺れたところよりはるかに深い。


母は、そこまで私の手を引いて連れて行ったかと思うとおもむろに私を抱えて

ポイッとその潮溜まりの中に、投げ入れたんですよ。鬼ですよ鬼。


「ほれ○○、泳がんか!泳がんかったら死ぬでぇ~!!」

オイオイ殺す気ですかアナタと。そりゃもうあせったあせった。アレはホントにやばかった。


その地獄のキャンプの数週間後。

私は母を、自分が溺れた砂浜に連れて行き、堤防から飛び込む姿を見せていましたとさ。

まあ、おかげさまで泳ぎが達者になったのなんのって。

高校の頃、親友につけられたあだ名はウォーターワールドだったかな。

まあ、海人という言葉は沖縄のものですが。

自称海人ですよわたしゃ。あの母のおかげ様で。


んでまあ、また話がちょっと脇にそれちゃいましたが、その当時に戻ります。


その日も私は元気に浜へ泳ぎに出かけていて、疲れて帰ってくると母が家にいて

私は風呂に入るからと母に告げて、入浴タイムに突入したのです。

しばらくして風呂から上がって、その時すんでいた家は表側の建屋が食堂で

裏が住居になっていたので、食堂の方へ回って飲み物を取ってこようとしたのですね。


しかし、不思議なことに食堂の鍵がかかっている。

なぜだろう?いつも鍵なんてかけてないのになぁ。なんて。

で、母が中にいるのかなとおもって、外から何度か呼びかけても返事がない。

でも、中に人の気配がする。


なんというか、妙な胸騒ぎがして住居に使っていた建屋の方へ戻り

食堂の鍵を探したわけですよ。


そして、食堂の鍵を発見。後になって後悔しましたけどね。見つけなければよかったと。

まあ、鍵を持って食堂のほうへ行ってそれで鍵を開けて中へ入ったんですよ。

そしたらまあ、びっくり


どこぞの見知らぬおっさんとうちの母があられもない格好で励んでる最中でね。

もちろん、二人ともなんでコイツが中にいるんだってな顔で固まってましたが。

その後の出来事は想像にお任せしますが。ま、あんまり思い出したくはない┐('~`;)┌


少しだけ時はさかのぼり、小学校3年の頃

うちの母は働きすぎと睡眠不足で脳溢血で倒れたんですね。

それから、食堂を営むことが困難になったりとか、まあ色々な理由で

生活保護とか受けていたんですが。そこへ来て小学校5年生の時に私が喘息にかかって

やむなく、病院のある町へ引っ越すことになったんです。


何人かの友達はいましたけど、基本的に私は中学卒業までずーっと

いわゆるいじめられっこという奴でね。


ぜんそくにかかる前は、とにかく理由も特になくのけものにされたりとか

その村全体でね。ある時なんかは、お前のところはお父さんいないから遊ぶなって

お母さんに言われた。だから遊ばないとか面と向かって言われたこともあった。

まあ、うちの母は気が強かったし言葉も関西弁で荒かったから、あの人は内地の人

だからなんてよく陰口を叩かれていたしね。


そんなこんなで、引越してしばらくしてからのこと。

ある日同級生の一人にこんなことを言われました。お前のお母さんは

男とやってお金もらって生活してるんだろ?ってね。子供は時に残酷ですが

もっとひどいのはそんな事を子供がいる前で話す親なんでしょうねきっと。


その時、とても衝撃を受けました。確かにうちは貧しかったし収入といえば

国から降りてくる生活保護と、たまに母が知り合いの農業を手伝ったりして得るお金くらい。

それでも、家に食べるものがないとか、学校に払うお金が無いなんて事は一度もなかった。


子供ながらに思ったものです。ああひょっとするとそうなのかな。なんて。


その考えを裏付けるかのように、ある日母を尋ねて客が訪れました。

本人は時間が過ぎて忘れていると思ったのでしょう。それはあの日私が目撃した

見知らぬおっさんその人だったのですがね。

それから、うちによく来るようになっていきました。そのおっさん。

昔からの母の友人ということでね、まあ私も昔の出来事を引っ張り出すことも無いと思い

かわいい子供演じたりしてたんですがね。


それがしばらくして本性を現し始めたわけですよ。とにかく酒癖が悪い。

食堂をやっていた頃もお客で何人かそういう人も見てきていましたが、なにせ

今回は直でうちに来る人間ですから。始末に終えない。


まず、酒が入ると口調が 僕から俺に変わる。目つきも変われば人相も変わる。

それでも、酒が入ってないときはいい人だったので私は耐えていました。


ある時なんかは、私が寝ていると酔っ払ったおっさんが突然私を起こして

意味も無く何度もビンタされた事もありました。そう、まるで

おまえさえ居なければ。とでもいわんばかりにね。


それでも耐えた。例え周りになんと見られようと、母が必要としているのなら

それでいいんだって。結婚するならすればいいやって。


そんな状況が中学の2年頃まで続いたのかな。


その人の家は遠い集落にあったので、母はよく原付でそこへ行ってましたから

私が中学にもなると、帰りが遅い日も結構あったのですがね。

その日に限ってやけに帰りが遅いなと。思ったんですよ。

確か、夜の10時近くになっていたのかな。私と一緒に夕食は取る母だったので

いつも9時前後には遅くても帰って来てたんですが、待てど暮らせど帰ってこない。

当時は、今みたいにケータイなんてないし、ポケベルなんて使えない人だったし。


とにかく心配でね。そのおっさんの家に電話しようかなと思ったんですが

実際のところ顔を見るのも声を聞くのもイヤってなくらいだったので、ためらってたんです。


そしたら、突然玄関をノックする音が聞こえてきてね。


あー何かあったかな。って直感しました。出てみると見知らぬおじさんがあわてた様子で

お母さんが事故にあった!ってね。ああ、やっぱりか。と

聞けば、帰り道で暴走族の集団と出くわしたか何かで、よけようとして道路脇の大きな

看板にバイクで突っ込んでしまったらしく。身体を強く打って救急車で運ばれたと。

そのおじさんは、その場で救急車を呼んでくれた人らしく家まで知らせに来てくれて。


急いで病院へ駆けつけると、まあ命に別状は無かったんですけど看板に直撃したらしく

顔面にいくつか青あざできてて、ぐったりしてるんですよ。


で、その時気づいてしまったんです。

言葉を交わしたときに、酒のにおいがすることに。


私は母が眠るのをまって、すぐにおっさんに電話しました。

で、なぜ遠い道のりをバイクで帰るのがわかってて、酒を飲ませたんだと問い詰めた。

おっさんは、母が事故にあった事に気が動転したのもあったのか、逆ギレし始めてね。


今からすぐに行くとの事だったので、私は家に帰ってくるのを待っていたんですよ。


待っている最中、色々なことが頭の中でごちゃ混ぜに渦巻いていました。

とても頭に来ていた。でも、母にとっては大事な人かもしれない。

せめて一言すまなかったと言う言葉があれば、許そう。でも気持ちはすっきりしない。

なんて事を色々とね。


おっさん家に来て最初の一言。俺のせいでお前の母親は事故にあったって言うのか!?


母に悪いなと心の奥底では思いつつも、とめられなかったですね。

気づけば、なきながら誤ってるおっさんが居ましたよ。私にボッコボコにされてね。


私は、小学生から空手を習っていたのですが、ケンカでそれを使ったこともないし

何より人に手を出すのが怖かった。だからいじめっこにケンカを売られても手が出せずに

悔しくて泣いていました。いつもね。自分が身に着けた技を使えばどうなるか、常にその

怖さをわかっていたからです。平気で人を殴れるのはなんでだろう。そう思うと悲しくてね。


ただこのときだけは私は遠慮しなかった。

それまでにされた仕打ちに対する恨みも相当あったのは確かですが。何よりも

一歩間違えれば事故のときに母は死んでいたかもしれないと思うと、怒りが自制心を

超えてしまっていたんですね。今にして思えば申し訳ない事をしたとは思います。


それから、おっさんが家に来ることはなかったですね。

母もおっさんの家に行くこともなかったです。


私は思うんですよ。いつも母と私は二人で生きてきて。親戚も居ない土地でね。

そりゃ仲のいい友達とかは居たみたいですけど、よそで何を言われてるかわからない。

島というところは、そういう閉鎖的で陰湿的なところもあるんです。

で、たとえば運動会とかありますね。地元の子供たちは親戚とかも集まってるから

わいわいとお弁当つついたりしてるけど、私のところは母と二人か、たまに知り合いが

来てくれたりする程度。まあ寂しいもんでした。幼い頃は全然気にしなかったんですが

母は母なりに、そういうのを気にしていたのかなと。


だから、酒癖の悪いどうしようもないおっさんでも、父親代わりになってくれれば

私が肩身の狭い思いをせずにすむ。きっと母はそういう思いもあったのでしょう。


いつも、どこか外でご飯でも食べようか?なんて気を使う母でしたから。

たまには外食でもさせてやらんとな~って思ったりしていたのでしょう。

私は私で、そんな母の気持ちがわかっていたので、いや俺は外で食うの嫌いなんだ。

なんてね。まあお互いの思いやりという奴ですか。

そりゃ、大喧嘩もしょっちゅうしましたが、そのたびに絆は強くなっていった気がします。


中学の頃、もっともぜんそくが酷い時期があって。ほぼ毎日のように夜中に発作で

苦しめられていました。おかげで学校へ行くこともままならずね。

たまに学校へいけば、うわばきがないとか、机の中に入れてあったものがないとか。

まあ、そんなことはしょっちゅうでした。友達と思っていた子にもお前と友達って

思われたくないからなんてね。言われたこともあった。おかげで人間不信になったりして。


学校も行きたかった。修学旅行も。部活もしたかった。でも身体がついてこなくて。

夜中の2時~4時くらいに決まって発作が起きる状態でね。救急車呼ぶと遅いし

タクシーのって行くわけにもいかないし。それで

いつも、私は自転車に乗って病院へ行ってました。真夜中に。

たまに看護婦さんに見つかって、あんた死ぬつもりかなんて言われたこともあったなあ。

母を起こしちゃ悪いと思ってね。だから母は私が夜中に病院行ってる事知らない日も

多かったかな。


そんな中でそれでも、変わらずに友達で居てくれた奴も何人か居てね。

一人は、私のうちへ毎週休みの日に泊りがけで遊びに着たりしていて。私が発作起こすと

病院へ付き添ってくれたりして。一度は自転車乗ることも出来ない状況で

私が歩いて病院へ行くというと、俺の背中へ乗れ!とか言ってくれたりしてね。

とてもうれしかったなぁ。だから悪い思い出だけじゃない。それどころか、そういう友達に

めぐり合えたことが幸せだった。今でも付き合いありますし。


さて、ここまで書き進めて来ましたがちょっと疲れたので、休憩。



ちなみに。



お楽しみ女子高生ですが、その後どこいったか行方不明ですよ。


幸せ絶好調の詩とか。書いてみようかなと試みるも

どうも苦手。

大塚愛みたいな才能あればいいのにね~。


まあ、適当に言葉を並べればいくらでもそういうものは生まれますが

魂の篭っていないものをつくり出したとしても、納得もできないだろうし

きっとそれは、見る人にも伝わると思うので無理はしないことに。

っと一人前なことを言いつつただの頑固なんですがねぇ。


なので、なんとなく幸せってなんだろうって色々考えてみることに。

とは言うものの、結局浮かぶ結論はその時の状況で違うんだろうなってこと。


それでも大事な事は、何かひとつ自分の中でなくしてはいけない物を見つけ出す。

これなんじゃないかなと。

生きていれば、毎日いろいろなことがあるものです。まさに

事実は小説より奇なり。実際生きてりゃとことん身勝手になったりするものです。

人に偉そうに言ったりするものの、自分に同じことを問いかけてみれば、

その時々に自分が満たされるために何かを追いかけている。


そう気づいたときに、じゃあたとえ目に見える形で自分という存在との関わりが

無くても、大事に出来ることってなんだろう。という所に至ったわけで。


そんな中で作ったのが、二日ほど前にここに乗せた詩です。

人にはネガティブに見えるかもしれないけれど、

とってもポジティブな内容だと思うんですけどね。私はね。


今そこに目に見える形を望むこと。それは本当の意味では

何かを創りあげる事ではなく、ただ満たされたいという欲があるだけ。


たとえ、触れることは出来なくても、目に見えなくても

自分自身の中に創られていくものこそが、私が大事にしたいもの

それは、想う気持ちそのものかもしれない。


欲と想いは似て非なるもの。ですが欲を生み出す原動力となるのは想いでしょう。

けれど、それがただの欲になる事なく気高き想いのままあり続けること。

それが出来たらいいなあ。なんて思うわけですよ。


ええ、自分がよくわかってますがね。そんなことは無理だろうとか。

それこそおそらく聖人君子にでもならない限りは、欲からは逃れられないでしょう。


でもね。目指すところは聖人君子とは言いいませんが

どんな時でも自分を見失うことなく、誇り高く生きていたい。


色即是空という言葉がありますね。般若心経の一節ですが。

自分なりにこの言葉を考えると、やっぱり自分のあり方で世界は大きく変わる

という所に至るわけです。


自分のあり方、気の持ちようとか考え方とかまあ、その他色々ですか。

目の前に見えている世界というものは本当にその時の気分などで全然違って見えます

ま、簡単に言えば休みの日にのんびり起きてきて見る朝日は気持ちいいですが

今日も仕事だ、なんて目覚ましに叩き起こされた朝はその光が疎ましく思えたり。


で、まあ私もそれは同じく思うんですけどね。

その朝日をまぶしく気持ちよく感じる事も、疎ましく思える事も

生きているからこそ。と思えるようになりたい。


その時の感情だけでなく、自分がそこに存在することの

喜びを感じること。意味を見出すこと。感じること。

そんな風になれたらいいなあ。なんてちょっと大げさかも知れないけれども。

んで、まあこんな考え方をまず大事にしていきたい。


あの詩の中に込めた想いはそこにあるわけです。


ゆるやか~に。おだやか~に。マターリ。


でもまだまだ、そんな理想の自分になるには程遠いです。

多分縁側で昆布茶でも飲みながら日向ぼっこするような歳になるころには

そこにたどり着けるかなあ。どうかなぁ。


あぁ、ちなみに昆布茶は今でも好きですがね。


そんなわけで、色々考えるゆとりもある私は多分幸せなのでしょう。きっと。



正月っていうのはまあ、身体休めるのには丁度いいですけど

何もする事が無いっつーのも困ったもので。

どうせなら今日は二本立てにしちゃおうということでシャオですこんばんは。


とは言うものの、特にコレと言って書く内容があるわけでもないのですが

なんとなく書いてるうちに色々思いついたりすることもあったりなので

この時間が好きなわけです。


そうそう、ふと見直してみれば今までに書いてきた駄文の総数が

もうすぐ100本を迎えようとしています。後10本くらいなのかな?


いつまで続けられるかわかりませんが、ライフワークみたいなもので

誰に見せたいとか見てもらうからとかいう意識はあんまりないかな。

なので、かなりオープンに赤裸々になってますがね。


某侍魂のような一日の訪問者10万件なんてサイトを作るのも

昔はあこがれましたが、それだけの人を魅了するような才能も文才も持ってない。


自分なりの考えなどを書き記しているだけなので、公に晒す気も無く。

なので、ここのリンクとか貼ってくれてる一部の友人たちのサイトくらいが

窓口なわけですが、まあ書いてる内容がアレなので来てくれる人は

ほぼ固定されちゃってるわけです。それでも毎日来てくれる人が何人か

いるようなので、十分私は幸せ。ありがたいことです。


さて、書くことがなくなった(ぁ

ぼーっとしてるときは結構色々思い浮かぶんですけどね~。

いざ書き始めて見ると支離滅裂だったりするのでなかなか表現できないもんだ。


ヤレヤレヽ(~~~ )ノ

誰か僕に文才とドラえもんください。